容疑者Xの講釈

――運命の会食。衝動的な抗議が生んだ発見

これをされるのが嫌

みなさんは、「これをされるのが嫌!」ということはありますか?

私は、自分に関するネガティブな言葉を聞くと、その言葉が桃鉄のボンビーみたいにまとわりついて離れない。
そんなイメージを強く持っています。

ギターを趣味とする私が、中学生の頃にギターを始めたときのこと。

母がぼそっと、「うちの家系は音楽の才能ないからなぁ」と言いました。

ピアノを習って成就しなかった兄や姉のことを思い浮かべて、何気なく言った言葉だったのかなと思います。


でも、その言葉は私にとって妙な信憑性を帯び、「音楽の才能がない」という呪われた言葉のドームで、自分とその可能性を隔てて来たように思えます。


母を責めたいわけではありません。

ただ事実、言霊とはよくいったもので、言葉って残るんですよね。

だからネガティブな言葉が発せられた時、それが自分にまとわりつかないよう、自然と「結界」を張ってきたように思います。
(「結界を張る」はハプロDの方からよく聞きます笑)

理想を装う

ハプロDの私は、自走するというより、外からの追い風や牽引力によって加速するタイプです。


そんな周りに影響されやすい自分の特性をどこかで感じていたからでしょうか。

無意識に他者の自分に対する言動をコントロールしようとしてきたように思います。


向かい風で「理想の自分」の装いが乱されないように。


特に責任を伴う仕事の場では、そんな思いが強くなります。



そんな装いをひっぺがされた、ほろ苦い体験から得た気づきの話です。

起こるべくして起きた事件

それは、以前、会社である宴会に参加したときのこと。
楽しい時間だったのですが、引っかかる出来事がありました。

過去に私が犯した失敗談を、同僚の先輩が場を盛り上げる話題として話し始めようとしたのです。


私がしてほしくないような話をする「枕詞」があったので、「やばい。止めないと!」と、強引に話題を変えました。


ちょっと申し訳ないなと思いつつ、その場では話の続きがされなかったので、安心していました。


ところが!
少しして私が一足先に帰るため席を立った後、
「さっき止められたから話の続きなんだけど……」
と、宴席から楽しそうに話す声が聞こえてきました。


内容までは聞こえませんでしたが、また私の失敗を酒の肴にされている。
そう強く不快な気持ちになりました。

「もう過去のことなのに」
「いつまでしつこくこすり続けるのか」
「醜聞を広めて楽しいのか」

そんな思いが頭から離れません。


タイプ的に、同じ現象が繰り返し起こされた時、「またか…」と、とっってもげんなりします。


その気持ちが「問題の根本解決」に向かう探究心を刺激し、一石を投じるという行動につながります
(ハプロDの定番パターンですね笑)。


「たぶんこの話”一生”言い続けると思う」
直近でそんなことを言われていたこともあり、火が点いた私の脳裏から出た指令。

「二度と起こさないためには今ここで止めるしかない!」


気づけば、近くにいた上司を動かして、その場を制止しようとしていました。

普段、不満やストレスをすぐには口に出さず、心の奥底に溜め込む私が行動を起こすときは、たいてい「錦の御旗」を高く掲げています。

そのときも、
「これは個人的な感情ではなく、非道を正すためだ!」
自分の中でそんな納得感があったからこそ踏み切ったのでした。
(要は頭に血が昇ったんでしょ?はい、そうです、、、笑)

そんなことがあった翌々日。
急いでいた私は、焦りが災いして仕事でミスをしました。

「失敗」というテーマが立て続けに目の前に現れたことで、改めて自分自身を見つめ直すことになりました。

そして気づいたのです。

根本的な問題は、「地雷を踏んだ相手」にではなく、「地雷を抱えている自分」にあると。

「地雷」の正体――理想が現実を拒否していた

ハプロDのルーツである農耕民族の村社会の習慣か、
「常識的に振る舞わなければならない」
「損害や迷惑をかけるのだけは絶対いや」
という強い軸が私にはあります。

だからこそ、本当はうっかりミスをすることもあるのに、「そうではない自分」であろうとしてしまう。

弱みを見ない。
認めない。
プラスの自己暗示のつもりも、それはただの現実逃避。


それで得られるものといえば、自分を守るためのプライドという分厚い鎧(よろい)だけ。
現実という重要な情報をブロックする鎧だけ。


そうなるとどんどん自分を見失ってしまいますよね。


円卓で10人と話していても、自分だけが見えていないのが自分の顔。

だから、むしろ周りの方が、 弱みを含めた自分の特性がよく見えていたりする。

その特性を認めない意固地な姿は、しっかり周りに伝わっている。


ここでようやく、事務局として、そして一人のハプロDとして、
「DNAトレイツを受けいれる」
という言葉の意味を勘違いしていたことに気づきました


私は研究員のみなさんとDNAトレイツを研究する中で、
「同じハプロでこんなに共通点があるんだ!」
「どこまでも自分はハプロDだ!」
と、日々感心し、納得してきました。

だから、自分はDNAトレイツを十分受けいれている。
そう思っていたのです。


でもDNAトレイツを受けいれている状態とは
「ハプロDは○○だ」
「私は○○だ」
と知識として知っていることではない。
そう気づかされました。

誰かから、
「あなたは○○だよね」
と言われたときに、
「そうなんですよー」
と、素直に反発せずに受け止められているかどうか。

おでこに札をパチンと貼られるように、個人名指しで言われると、
「いや、あのときはこういう状況で……」
と反論したくなる。

「そんな言い方はないんじゃない?」
と反撃したくなる。

「自分のことは自分が一番よく知っている!」
と意地を張りたくなる。


まさに、臭いものに蓋をする状態。


弱みを臭いもの扱いすると、それはコンプレックスになり、地雷になり、人を、そして自分自身をも傷つける材料になる。


あの日の宴会をふたたび思い出し、自分も周りも巻き込んだ地雷の焼けた匂いを感じながら、ようやく、原因は自分の中にあることに気づきました。


そして今回、一石投じた動機の背景を思い浮かべながら、いつの間にか忘れていた私の座右の銘を思い出しました。

調和を乱していたのはまさかの…

『嫌われる勇気』が空前のブームになった10年以上前。

当時の私は、その著書の中の、自分の課題と人の課題をきっちり分けて考えるという「課題の分離」という考え方に深く腹落ちし、それを座右の銘にしていました。

ところが今回、自分がまさにその「課題の分離」ができていないことに気づいたのです。

状況によって強く悪意を感じたりと、相手の言動の意図に敏感な私は、心の中でよく、
「そこに愛はあるんか?」
と無意識に相手に問いかけていました。


でも、その言葉はブーメランになって自分の胸に刺さりました。


自分の課題を棚に上げ、人の課題に踏み込むことは、他責思考に他ならず、調和を失う原因になる。



『はじめてのDNAマトリクス®︎』を読み返しながら、自分らしさの源にある「調和」を損なう原因を作っていたのは、ほかでもない自分なのだと気づきました。



ハプロDらしさをフィットさせるためのヒントとして書かれているのが、「距離感を心がける」ということ。


適切な距離を保てず、「大義名分得たり!」と、相手の課題に踏み込んでしまえば、調和は崩れる。


冷静になってようやく、調和を乱しているのがほかでもない自分だとわかったのです。

(ちなみに「座右の銘」は、後漢の文人・崔寔が自分の座る場所の右側に戒めを書き記していたことに由来するとか。
その戒めには
「他人の短所を指摘するな」
「自分の長所を自慢するな」
ともあったそうです。
2000年近く前から、人の課題は何も変わってへん!耳痛い!笑)

弱みを知る人は、強い

人との調和を育むためには、自分自身の中の矛盾や対立を解きほぐすことも必要ですよね。

そのために避けて通れないステップ。
それはやはり、弱みも含めたありのままの自分を受けいれること。


『はじめてのDNAマトリクス®︎』でも紹介されているネガポジキーワードのとおり、 強みと弱みは表裏一体。

より多くの人を乗せて走れるのがバスなら、2人しか乗れなくても優れた加速ができるのがスポーツカー。

現実(弱み)を見ないというのは、足の遅いバスが
「おれはスポーツカーより速く走れる!」
と言い張るようなものでしょうか。


代表の木村恵美さんの言う
「現実を理想に近づけるのではなく、理想を現実にフィットさせる」
という言葉の意味が、今回ようやく腑に落ちました。


自身の体型を無視して服選びができないのと同じですよね。


現在地がわからないと、カーナビにナビゲーションしてもらうことはできない。


「ありのままの自分」という現実を見ない結果、私の理想は空回りしていたのです。

「可愛い」の意味

長々講釈を垂れてしまいましたが、結局、あの宴会で何が嫌だったのか。


それは、自分がとても「いや〜な顔」をしていたことなのだと思います笑


見えてはいないけれど、それは分かる。

代表の木村恵美さんは、
「DNAトレイツを受け入れると、かわいくなれる」
と言います。

私は男性だし、
「別に可愛く見られたいわけではないけどなぁ」
と、ちょっと思っていました。

でも、わかりました。

自分自身で「かわいい」と思える自分であること。
それが、とても大切なのだと。

「可愛い」は、「愛することが可(でき)る」と読めます。

そうすると、あの言葉がもう一度、自分に返ってきます。

「そこに愛はあるんか?」

今度は、誰かに向けるのではなく、自分自身に。


失敗=負けではない。

鎧を着て「失敗しない自分」を演じ続けるより、「失敗することもある裸の自分」を受けいれる。
その上で、自分に合った工夫を重ねていく。

そのほうが、きっと前向きに、そして自由に生きられる。

みなさんは、自分を愛せていますか?


DMR事務局 西村